地域に合った変化を遂げる、奄美と沖縄の食文化
日本列島の南に続く南西諸島にはいくつかの小さな島々が連なっています。およそ1,200万年前には、この島々はユーラシア大陸や日本列島と地続きだったと考えられており、大陸に起源をもつ多種多様な動植物が島々で固有の進化を遂げ、いまも生息しています。
なかでも奄美大島、徳之島、沖縄島北部と西表島には世界的に希少な動植物が複数存在し、それらを守り維持していく自然環境があることから、2021年に世界自然遺産に登録されました。
これらの島々は、歴史や文化においてもユーラシア大陸と日本の両方から影響を受け、独自に発展してきました。とくに奄美では沖縄や本土の文化を、古くから東アジアの国々と交流が盛んだった沖縄は外国の文化を柔軟に取り入れてきました。そのため、地理的には近くにありながら、異なる文化や習慣が多いことが郷土料理からもよくわかります。
奄美と沖縄の郷土料理には、同じ食材を使いながらまったく趣の異なるものが多く見られます。塩漬けにした豚肉を煮込んだ奄美の塩豚に対して、沖縄の蒸留酒である泡盛と砂糖で甘辛く煮込む沖縄のラフテー。そうめんを出汁で軽く煮る奄美の油そうめんと、野菜と炒めて食す沖縄のそうめんチャンプルーなど。
なかでも鶏肉を使った郷土料理には、それぞれの地域の歴史や人々の生活習慣がよく表れています。
時代を超えて愛される奄美の郷土料理「鶏飯」
奄美大島の歴史から生まれた鶏飯は、このエリアの食文化を語るうえで欠かせない郷土料理です。白いご飯の上に、ほぐした鶏肉と錦糸卵、パパイヤの漬物や、奄美の特産品でもある柑橘類のタンカンの皮を刻んだものなどをのせ、あたたかい鶏ガラスープをかけていただきます。
鶏飯の始まりは、奄美大島が薩摩藩(現在の鹿児島県)の支配下に置かれていた江戸時代(1603年〜1868年)にさかのぼります。島にやってくる薩摩藩の役人たちをもてなすための料理として、鶏飯がつくられるようになったそう。物資の少ない離島で、鶏は卵を産む貴重な家畜。そんな大切な鶏をまるごと使う鶏飯は、大事な客人のための特別な料理でした。
当初は具材とご飯を一緒に炊いたものを鶏飯と呼んでおり、現在のスタイルで食べられるようになったのは1941年から第二次世界大戦後にかけてのこと。さらにこの頃から、一般家庭でも食べられるようになったそうです。
鶏飯専門店の「けいはん ひさ倉」の主人、久倉勇一郎さんが家庭料理としての鶏飯について教えてくれました。
久倉:役人のための料理だった歴史から「殿様料理」とも呼ばれる鶏飯ですが、いまは奄美の家庭料理として親しまれています。パパイヤは家庭で食べるには高価なので、代わりに別の野菜を使った漬物を乗せるなど、家庭ごとにスープの味つけや具材に個性があります。
「けいはん ひさ倉」の鶏飯スープは、久倉さんのお母さんの味つけがもとになっています。鶏のうま味が凝縮された鶏ガラスープに、塩と醤油のみ。いたってシンプルですが、あっさりとしていてコクがあり、あっという間に完食してしまいます。
久倉:味の決め手は、やはりスープです。一度に数十羽の鶏を煮込んで、大量のスープをつくるのがコツ。あとは時間をかけて余分なアクを除き、透き通ったきれいなスープに仕上げます。
「けいはん ひさ倉」の開業は1993年。もともと、奄美大島を発祥とする高級絹織物・大島紬の職人だった久倉さんのお父さんが、「自分たちで育てた鶏で鶏飯をつくったら、美味しいものができるに違いない」と、養鶏場で鶏を飼育することから始めたのだそうです。
久倉:鶏飯を出すお店はたくさんありますが、鶏から育てているのは私たちだけです。平飼いでストレスを軽減させ、よく運動させることで健康な美味しいお肉になります。自分たちで鶏の解体も行なっていて、出汁がよく出るよう捌き方を工夫しています。
久倉さんが育てているのは鶏だけではありません。ご飯にのせるパパイヤやタンカンも、自分たちの畑で栽培しているのだといいます。
久倉:年間を通してあたたかい奄美の気候は、パパイヤ栽培に向いています。青いうちに収穫して、味噌や醤油で漬物にし、保存食にするんです。
また、奄美は日本有数の多雨地帯。とくに8月には台風が多くやってきます。タンカンは、2月が収穫時期の果物です。8月にはまだ実が小さく、風雨にさらされて落ちる心配が少ないので、奄美では昔からよく栽培されているんです。
鶏飯の器には、奄美の歴史や自然環境、人々の暮らしの知恵がつまっています。時間や手間暇を惜しまずつくられた鶏飯は、いまもおもてなしの心にあふれていました。
卵を産み終えたあとも美味しくいただく、やんばるの「廃鶏」料理
沖縄県の北部は、古くから「やんばる」という愛称で呼ばれています。多種多様な植物が育つこのエリアの森は「やんばるの森」と呼ばれ、絶滅危惧種の鳥・ヤンバルクイナやノグチゲラなど希少な動物も生息。また地域の人々は山で炭を焼き、染料として使われる琉球藍などを栽培することで自然と共生してきた歴史があります。
そんなやんばるの伝統的な食文化のひとつに、廃鶏があります。廃鶏とは、卵を産み終えた雌鶏のこと。一般的に採卵期間を終えた雌鶏は肉質がかたく、食肉用としては価値の低いものとして扱われます。しかし、やんばるエリアでは昔から、廃鶏を一般家庭で食べる習慣があるのだそうです。
国頭村で廃鶏料理の専門店「とり屋 Twie」を営む山谷さんに、廃鶏を使った食文化についてお聞きしました。
山谷:やんばるでは、廃鶏がバーベキューの定番食材なんです。昔は村にレストランや居酒屋がほとんどなかったので、みんな仕事が終われば誰かの家に集まって庭でバーベキューをして楽しんでいました。廃鶏は普通の鶏肉より安く買えるので、親しみやすかったのかもしれません。いまでも庭から煙が見えたら、「廃鶏を焼いているのかな?」と思うくらい、当たり前の光景です。
バーベキューでは、炭で焼いた廃鶏を塩コショウでシンプルに味つけし、ビールや泡盛と一緒にいただくのだそう。肉質がかたくて食べにくいといわれる廃鶏ですが、山谷さんによると「下ごしらえや調理の仕方で美味しく食べられる」といいます。
山谷:たしかに廃鶏は食肉用の鶏肉と比べて歯ごたえがありますが、美味しくない、ということではないんです。焼いた廃鶏は噛めば噛むほど肉のうまみが出てきます。たとえるなら、鶏肉のなかでも歯ごたえがあって高級食材とされる、地鶏のような濃厚な味わいです。
じつは、山谷さんは日本の北部・秋田県の出身。やんばるエリアで廃鶏を初めて食べたとき、故郷を産地とする比内地鶏の味を連想したといいます。
山谷:妻の地元である国頭村に移住してきたのが、いまから15年ほど前。それまでは東京や秋田のレストランでシェフをしていたのですが、廃鶏と出会い、ラーメン屋を始めようと決めました。廃鶏で出汁をとれば美味しい鶏ガラスープができると確信したからです。
もともとラーメンが大好きという山谷さん。毎日2時間かけて鶏ガラと醤油をベースにしたラーメンスープをつくっています。廃鶏は長時間加熱してもぱさつきにくいため、たっぷり煮込んだチキンカレーやガーリックチキンなどラーメン以外の料理も徐々に増えていったといいます。
山谷:国頭村には在日アメリカ軍の訓練場や保養地があり、駐留中の軍人さんやその家族も、廃鶏料理を食べにやってきます。廃鶏を知る人が増えたおかげか、最近はやんばる以外の地域でも廃鶏を食べる人が増えているんですよ。
美しい自然やのどかな暮らしに魅せられて、いまでは本州からやんばるへの移住者も多いといいます。廃鶏も新しい人々と出会うことで、さらに魅力的な郷土料理へと進化していくかもしれません。
世界的にも食品ロスが問題となっている昨今、命を余すところなくいただくやんばるの人々の姿勢は、自然とともに生きることの豊かさを教えてくれます。
けいはん ひさ倉 |
住所:〒894-0101 鹿児島県大島郡龍郷町屋入511営業時間:11:00~20:30定休日:不定休URL:http://www4.synapse.ne.jp/hisakura/ |
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とり屋 Twie |
住所:〒905-1412 沖縄県国頭郡国頭村字奥間1605(「道の駅」ゆいゆい国頭内)営業時間:11:00~16:00(売り切れ次第終了)定休日:金曜日URL:https://www.yuiyui-k.jp/gourmet/%e3%81%a8%e3%82%8a%e5%b1%8b-twie-%ef%bc%88%e3%81%a8%e3%82%8a%e5%b1%8b-%e3%83%88%e3%82%a5%e3%82%a4%ef%bc%89/ |