流氷から始まる、知床のいのちの物語
北海道の最北東端に位置する知床半島は長さ約70km、幅が広いところで約25km。オホーツク海に突き出るようにしてある細長い半島の中心部には、約860万年前から始まった海底火山活動によって形成された標高1,500m級の山々が連なる知床連山が南北にのび、羅臼岳や硫黄山など、今も火山活動をつづける山もあります。
冬になると、知床半島には海氷が押し寄せ、海は氷で閉ざされます。過酷な環境のように見えますが、実はこの海氷こそが知床の豊かな生態系を育む源。その秘密は海氷に張り付いている植物プランクトンで、海氷が解ける春になると栄養豊富な知床の海で大繁殖します。それを動物プランクトンが食べ、そこから魚や鳥、シャチやトドといった動物たちの食物連鎖がつづいていきます。
一方、陸地では知床連山から海に流れ出る90本もの川に、毎年無数のサケやマスが遡上(そじょう)してきます。海でたっぷり栄養を蓄えたサケやマスは、ヒグマやオオワシ、シマフクロウの命をつなぐもの。食べ残された魚は小型の動物の餌となり、最後にはバクテリアに分解されて豊かな土と森を作ります。その栄養は長い時間をかけて川から海へ戻り、また植物プランクトンの繁殖を支えることになるのです。
海と陸、そしてそこに息づく生き物たちが密接に関わることで生まれる生態系。その貴重さが評価され、2005年、知床半島の中央部から先端の知床岬にかけての陸地と、その周辺の海を含む約7万1,100ヘクタールの地域が世界自然遺産に登録されました。
自然と共生していたアイヌの暮らし
「知床のアイヌは海と山の恵みを得て狩猟採集の生活を送り、シマフクロウやシャチ、ヒグマなどを神と崇める自然信仰に基づく文化を育みました。それは自然の一部となって共生する暮らしで、今を生きる私たちがそこから学ぶことはたくさんあります」
そう語るのは、知床でアイヌ自らによる初の先住民族ツアーを開催していた早坂雅賀(はやさか・まさよし)さん。2007年から14年間知床でツアーガイドとして活動したのち、現在は札幌で彫刻や伝統舞踊、伝統楽器の演奏を通して、アイヌの文化を伝えています。
「アイヌはヒグマやシャチ、シマフクロウなどの動物を“カムイ=神”として敬いつつも、同時にそれらを狩猟の対象とし、食料として利用していました。神様を食べるの?と思われるかもしれませんが、それらは全て神様からの贈りものであり、感謝していただくという考え方です。獣や魚、鳥の皮、植物の内皮を使って衣服を作り、動物の骨から狩りや漁に使う道具もこしらえ、多くの植物を薬として使ってきました。そんなふうに、自分たちに恵みを与えてくれるものや自然現象を神として大切に想ってきたのです」
アイヌ文化を伝える早坂さんが、知床で好きな風景があるといいます。夏の終わり、川を遡るサケをヒグマたちが狙う姿です。
「アイヌはサケを“カムイチェプ(神の魚)”と呼び、カムイが人間のために神々の国から送ってくれたものだと考え、大切にしてきました。夏の間、食料が乏しく、じっとサケの遡上を待っていたヒグマたちはすっかり痩せ細ってしまうのですが、サケが戻ってくると川に飛び込んでお腹いっぱい食べます。その姿を見ていると、知床の大きな自然の循環を感じますし、かつてのアイヌもまた、こうして自然の一部となって暮らしていたのだと思うのです」
今に伝えたい、アイヌの文化と自然との関わり方
2007年から知床で「アイヌ民族と歩く知床の自然ツアー」を開催し、自らガイドとして多くの人を案内してきた早坂さん。森に入る前には必ずアイヌに伝わる神様への祈りを捧げます。両手のひらをすり合わせたら、手のひらを上に。このしぐさは、神に対して「自分は何も持っていない、神に対して何もするつもりはない」という意味があるそうです。
2時間ほどのツアー中、森の植物を手に取って、アイヌがそれらをどんなふうに利用してきたかを解説します。たとえば、「これは衣服を作るのに欠かせなかったシナノキ。この内皮を繊維にして使います。キハダの皮は腹痛がある際に利用したそうで、こうしてアイヌはさまざまな植物を薬として活用しました」というように。
かつてアイヌの人びとが暮らしのなかで利用していた植物が、今もなお育っていることに驚きます。ダイナミックな風景や野生動物の姿も魅力だけれど、こうして足元の植物からアイヌの文化に触れられるのもまた、知床を歩く大きな魅力なのです。
ツアー中、早坂さんが必ずする話があるといいます。それは、アイヌが伝統的に行なってきた「イオマンテ(熊送り)」という儀式のこと。
「イオマンテはアイヌにとってもっとも重要な伝統儀式の一つです。春先、ヒグマ猟で手に入れた子グマを1〜2年大切に育て、その後、集落を上げた盛大な儀礼とともにその魂を神々の世界へ送り出します。この話をすると、多くの人は最初、『残酷だ』と抵抗感を示します。そんなとき私は、『じゃあ皆さんは動物の肉を食べないのですか?』と問い返します」
ともすればアイヌ文化に対する抵抗感をもたれてしまうかもしれないセンシティブな話をあえてするのは、今を生きる人びとに、改めて自然との関わり方を考えてもらいたいからだそう。
「子グマを育てている数年間、人びとは常に神の存在を意識して生活します。人間の世界で大切に扱われたものは、神の国へ行ったあと、また獣の姿をして人間の世界に戻り、恵みをもたらしてくれると考えます。そこには命を“いただく”という自然に対する感謝と畏敬の念があります。みなさんは食事の前に『いただきます』と言いますよね。アイヌの文化に触れることで、その本当の意味に思いを巡らせる機会を得てもらえたらと思うのです」
アイヌが見た風景が見られる場所へ
早坂さんが知床で好きだという風景の一つが「フレペの滝」。自身のツアーでも滝へとつづく遊歩道を一緒に歩きながら、アイヌの歴史や文化、伝承などを紹介してきました。
「断崖絶壁の海岸線や壮大な知床連山の大パノラマ、そして高さ100mの崖から海へ流れ落ちる水の様子を見られるフレペの滝は、熟練の登山者でなくとも知床のダイナミックな自然に触れられるスポット。人工物が一切目に入らず、かつてアイヌが見ていた風景を追体験できるような場所です」
フレペの滝へは、ウトロにある知床自然センターから片道約1km。遊歩道が整備されたアップダウンの少ない道ですが、そこはヒグマの生息域です。個人で歩くのが不安な場合は、「各種ガイドツアーに申し込むのがおすすめ」と早坂さん。
「とくに春は新緑が美しくて、滝の水量も多く大迫力です。遊歩道には花が咲き、長い冬をへてやっと春が巡ってきたという喜び、自然のパワーを感じられます。冬眠していたヒグマも活動を始めているので注意が必要ですが、その気配を感じられるのもまた、知床を歩く醍醐味です」
人間もまた、自然の一部である。これはアイヌが今を生きる私たちに伝えてくれる大切なこと。アイヌ文化が息づく知床は、頭ではなく、体と心でそのメッセージを受け取れる場所なのです。
取材協力
早坂雅賀さん
- 住所
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北海道旭川市生まれ。アイヌ民族の彫刻家の家系に生まれ、30代から本格的にリムセ(踊り)やカムイノミ(儀式)、彫刻を学ぶ。2007年から知床で「アイヌ先住民族ツアー」のガイドを務め、14年間勤務。現在は札幌に暮らし、彫刻家、アイヌ伝統舞踊家、伝統楽器であるトンコリ奏者として活動。主に芸術分野でアイヌ文化の継承を行う。
関連スポット
民芸旅館・民芸 酋長の家
- 住所
- 北海道斜里郡斜里町ウトロ東112
- 電話番号
- 0152-24-2742
- URL
- https://hpdsp.jp/shuchonoie/
知床観光の中心地ウトロにある、アイヌが営む宿。併設の民芸品店ではアイヌの民芸品や装飾品、木彫り作品などを扱う。アイヌの木彫り技術を受け継ぎ独自の木彫り作品を生み出した木彫家の藤戸竹喜や、世界的なアイヌ彫刻家である砂澤ビッキの貴重な作品にも出合える。
北海道立北方民族博物館
- 住所
- 北海道網走市潮見309-1
- 電話番号
- 0152-45-3888
- URL
- https://hoppohm.org/index2.htm
グリーンランドから北欧まで、アイヌを含めた北方民族の文化とオホーツク文化を紹介する国内唯一の博物館。衣食住などテーマ別に展示が構成され、アイヌだけでなく、ほかの北方民族の文化と比較することで、より深くその特徴や成り立ちを学ぶことができる。