流氷がもたらす絶景と、命をつなぐ食物連鎖
日本列島のなかで、最北に位置する北海道。その東部に、オホーツク海に突き出るように伸びる細長い半島があります。長さ約70キロ、幅約20キロの陸地からなる知床半島です。
知床半島は、約860万年前から始まった海底火山の活動によって形成されました。約25万年前には陸での火山活動も始まり、羅臼岳やサシルイ岳といった標高1,500メートル級の山々が、半島の中央に連なっています。
また、知床半島は北半球でもっとも南に位置する、流氷の接岸地域。毎年1月下旬から3月にかけて流氷が接岸し、海岸線から水平線にかけて、真っ白な流氷原が広がります。
流氷は、知床半島の生態系をつくるうえでとても重要な存在。まず、流氷の底についたアイスアルジーという植物性プランクトンが、春になると海中で大繁殖します。
そしてアイスアルジーは動物性プランクトンの餌となり、これを食べたサケやマスが海から川へ遡上。ヒグマやキツネ、野鳥などの食糧となり、海の栄養が陸に運ばれるのです。こうした食物連鎖による生態系の循環が、知床半島の豊かな森や海を支えています。
流氷からはじまる陸と海のダイナミックな食物連鎖が理由のひとつとなり、知床半島は2005年に世界自然遺産に登録されました。そのため、陸地部分だけでなく海岸線から約3キロメートル沖までが、世界自然遺産の登録地域です。
そんな知床半島の生態系を間近に感じるには、流氷が接岸する2月から3月に開催される、「流氷ウォーク」や「流氷バードウォッチング」への参加がおすすめです。
美しい流氷に魅せられて知床半島に移り住んだという「シンラ」代表の岩山直さんは、20年以上にわたり「流氷ウォーク」などの自然ガイドを行ってきました。
岩山:「流氷ウォーク」では、流氷の上を歩いたり寝そべったり、参加者は思い思いの楽しみ方で氷とふれ合うことができます。
岩山:「流氷ウォーク」とともに「冬の野生動物ウォッチング」や「スノーシューイング」など、森を歩くツアーに参加する人も多いです。森では冬毛になったキタキツネやエゾリス、エゾシカなどの野生動物や、コバルトブルーの模様の羽が美しいミヤマカケスという野鳥の姿が見られます。
多くの野生動物が暮らしている場所だからこそ、そこを訪れる人は動物との距離の取り方に気をつけなければいけません。観光客が守らなければいけないルールのひとつが、動物への餌付けです。
岩山:動物のなかには観光客の車に近寄ってくるものもいますが、むやみに近づいて餌を与えてはいけません。一度餌付けされると、動物は車や人を恐れなくなります。
そのせいで、キツネやシカが車とぶつかって死んでしまうこともありますし、ヒグマが人間の食べ物を欲しがって住宅地に入ってくる原因にもなります。
ほかにも、野外での食べ歩きや、ゴミの放置も野生動物を引きつけてしまう行為なので禁止されています。罪のない動物の命を守るためにも、一人ひとりの心がけが大切です。
冬こそ海へ。アザラシやクリオネを身近に感じる流氷ウォーク
「流氷ウォーク」は、およそ90分間のツアー。最初に海岸でダイビング用のドライスーツに着替え、準備運動をします。
岩山:ドライスーツは服の上から着用します。保温性と防水性に優れており、海に落ちてもドライスーツが浮き輪代わりになるので溺れる心配がありません。むしろ、海に浮かんだり、流氷の間を泳いで移動したりと、多くの参加者が楽しんでいます。
岩山:ドライスーツを着ていれば安全ですが、服のまま流氷の上を歩くのはとても危険です。万が一、海に落ちてしまうと分厚い流氷の上に登るのは難しく、溺れてしまうこともあります。
冬場、もっとも気温の下がる2月は平均気温がマイナス5度~6度。さえぎるもののない流氷の上ではさらに寒く感じるでしょう。
また、流氷の上は雪が積もり滑りやすくなっています。もし転倒してもケガをしないよう、厚手のニット帽を準備しておくと安心です。
準備が整ったら、流氷の上に足を踏み入れます。接岸した流氷は、まるで波が打ち寄せるように折り重なり、間近で見ると迫力満点。なかには2メートル近くの巨大な氷の塊もあります。
流氷から流氷に飛び移ったり、氷の上に寝そべって見せたり、岩山さんが参加者の緊張をほぐしながら、楽しみ方をレクチャーしてくれます。
岩山:流氷の上で過ごす時間はおよそ1時間です。足もとの不安定な場所なので、歩ける距離は300メートルほど。流氷に腰掛けてゆっくりと周りの景色を見渡したり、寝そべって大空を眺めたりするのも気持ちいいですよ。
海の上にいるはずなのに、波の音は聞こえません。その代わり、耳を澄ましてみると、ときどき野鳥の鳴き声にまじって、流氷同士が擦れ合う「流氷鳴き」が聞こえてきます。
流氷のうえを楽しんだら、流氷の割れ目から海に入ってみましょう。「海のなかでは、ラッコのように胸の上に手を重ねて浮かぶと、安定感があって安全です」と岩山さん。
岩山:海に浮かんでいると、「流氷の天使」とも呼ばれるクリオネがすぐそばまで泳いで来ることもあります。また、好奇心旺盛なアザラシが氷の間から顔を出しているのを発見することも。海の生き物の気配が感じられるのも「流氷ウォーク」の楽しみのひとつです。
岩山さんいわく「接岸する流氷の量は年によって違う」とのこと。どんな流氷が見られるのかは毎年、予想がつかないといいます。もっとも寒い2月でも流氷が少なく海面が多く見える年もあれば、3月下旬になってもぶ厚い流氷が残っている年もあるのだそうです。
「流氷ウォーク」の開催は、午前と午後で2回ずつ。天気や気温、見る時間帯によって流氷は姿を変えます。とくに「晴れた日の夕方、流氷のなかに沈んでいく夕日は格別」だと岩山さんはいいます。
岩山:夕方のツアーに参加すると、ドライスーツで海に浮かびながら、オレンジ色に染まる空と流氷を眺めることができます。海面が夕日に照らされると、オレンジ色の鏡のように光って見えるんです。本当に、この世のものとは思えない景色です。
野生動物の意外な一面に出会える、流氷バードウォッチング
知床半島では、陸にはヒグマ、海にはシャチといった大型の哺乳類が生息し、これらを食物連鎖の頂点として、数多くの野生動物が互いに影響しあいながら生きています。そのなかにはシマフクロウやオオワシ、オジロワシといった絶滅危惧種に指定されている猛禽類(野鳥)もふくまれています。
とくにオオワシとオジロワシは、11月上旬から姿を見せ始める、冬の知床半島を代表する鳥。「空を見上げていると1時間に100羽くらい、次から次へ流れるように渡ってくる日もある」と岩山さんが言うように、冬の知床半島はオオワシとオジロワシの世界最大の越冬地になります。どちらもサハリンやカムチャッカ半島などから季節風に乗って渡ってきます。
岩山:オホーツク海は、11月頃から流氷が来るまでの数か月間、鉛色の荒波が打ち寄せます。家のなかにいても怖いほど波の音が響くのですが、ある日、その音が急に消えるんです。それが知床半島に流氷がやって来た合図です。白い流氷で覆われた静かな海に、オオワシやオジロワシの声が響くと、流氷の季節の始まりを感じます。
オオワシは世界で5,000羽ほどしか生息していませんが、そのうちのおよそ700羽が越冬時期に知床半島へ集まります。
岩山:流氷の時期、知床半島でオオワシとオジロワシが見られる確率はいまのところ100パーセントです。オオワシは翼を広げると2メートル以上にもなる大きな鳥。日本国内で見られる鳥のなかでは最大級です。黒と白の羽のコントラストと、鮮やかな黄色の鋭いくちばしが特徴で、その精悍で力強い姿をひと目見ようと世界中からバードウォッチャーがやって来ます。
オジロワシはオオワシに比べるとやや小さく、翼を広げると2メートルほど。尾の部分だけ白いのが特徴です。渡り鳥ですが、一部は知床半島でも繁殖しているので、一年中その姿を見ることができます。
オオワシもオジロワシも、11月から2月にかけて流氷に集まります。流氷の上からバードウォッチングをしていると、オオワシが空から颯爽と降り立つ姿や、飛び立つ際に雪の上に残る羽の跡も見られます。
岩山:海や空だけでなく、流氷の上から森を眺めるのも冬だけの特別な体験です。冬眠中のヒグマも、早ければ2月下旬~3月上旬には目を覚まして活動を始めます。運がよければ、ヒグマやエゾシカが森から下りてくる姿に遭遇するかもしれません。
流氷のうえには、キタキツネや夜行性のエゾクロテンの足跡を発見することもあります。
岩山:キタキツネは打ち上げられた昆布や魚を求めて、ときどき流氷にやって来ます。また、ときには流氷に乗ったエゾシカが、氷ごと流されて陸に戻れず死んでいる姿も発見しますが、その死骸もいずれヒグマや野鳥の食糧になるでしょう。これも、流氷がもたらす命の循環のひとつです。
厳しい自然環境のなかだからこそ見られる絶景や、寒さを耐えて力強く生きる動物たちの姿は、訪れた人の目も心も釘付けにするはず。
知床半島は、北海道の中心都市・札幌からは車で6時間以上、東京からは飛行機で2時間、最寄りの女満別空港に到着したあとも、バスで2時間以上かかります。それでも「時間をかけて流氷を見るためだけに訪れる人も多くいます」と、岩山さんは教えてくれました。
「流氷ウォーク」や「流氷バードウォッチング」に参加することで、流氷がもたらす恵みが海から川へ、そして森へ広がって、知床独自の生態系を育んでいることをより深く実感できることでしょう。
シンラ(知床自然ガイドツアー株式会社) |
住所:北海道斜里郡斜里町ウトロ西187-8電話番号:0152-22-5522URL:https://www.shinra.or.jp/index.html |
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