World Natural Heritage in Japan 日本の世界自然遺産

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白神山地

森から食卓へ。白神山地の水がつなぐもの

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白神の自然とともに生きる、地域の暮らしと知恵

秋田県北西部、三種町。緑の濃い水田のあいだに、静かな沼があります。玉虫色の羽をしたトンボが、水面すれすれをゆっくり漂っていく。その静けさを破るものは、二つだけです。800mほど上の山から湧いた水が落ちる音。そして、ときおり飛ぶ冗談。声の主は、北林農場の主人、北林辰男さん。80代。よく笑う人です。

三種町は、白神山地への入口の一つ。秋田県と青森県の山々にまたがるこの世界自然遺産が登録されたのは、1993年。守られているのは、世界でも最大級のブナ原生林。約8000年のあいだ、ほとんど人の手が入らないまま保たれてきました。森の影響は、山のなかだけにとどまりません。ブナ林を抜けた水が湿地をつくり、水田を潤す。ここにしかいない生きものを養う。まわりの集落の食も、もとをたどればこの水です。

一人乗りの、箱のようなかたちをした木の舟。そこに座って、北林さんがじゅんさいの摘み方を見せてくれます。澄んだ湧き水の沼でしか育たない、この土地の誇る作物です。若い芽は透明なぬめりに包まれていて、あの独特のつるりとした食感はここから生まれます。この一帯でもっともよく知られた、初夏の味です。

じゅんさい摘みをやってみると、これが難しい。まず、水面に浮かぶ丸い親葉を見つける。その数センチ下、小さな芽のすぐ下の茎を指ではさむ。とにかくよく滑るので、逃がさないうちに、ひと思いに摘み取ります。

思いのほか難しく、無心になれて、満たされる。白神山地を訪ねたときに味わいたい体験の一つだ。

水が澄んでいるのには、理由があります。白神山地のブナ原生林をゆっくり通り抜けるあいだに濾された水が、じゅんさいの育つ条件をつくっています。森と食べもののあいだの距離は、ここでは驚くほど近い。食卓までの道のりは、ブナの木々の下から始まっているのです。

数時間を沼の上で過ごしたあと、摘みたてのじゅんさいはすぐテーブルへ運ばれます*。収穫したじゅんさいは持ち帰ることも、その場で新鮮なうちに味わうこともできます。NPO法人三種町観光協会に戻ると、職員の佐々木文さんが「じゅんさいカクテル」をサプライズで出してくれました。つるりとしたじゅんさいに、青じそのさっぱりしたソースを合わせた一品。凝ったことはしていません。そのぶん、繊細な食感がよく立ちます。昔からある食材が、いまの料理のなかでも生きていました。

*収穫したじゅんさいは無料で持ち帰ることができます。また、追加料金で農園での試食(+1,000円)や、森岳温泉ホテルで調理したじゅんさいを味わうこともできます。(+2,500円、要事前予約)。

森とともに暮らす、食と伝統と受け継がれてきた知恵

白神山地のまわりの集落は、何世紀ものあいだ、この森から水と食べものの両方を得てきました。山あいの村にスーパーマーケットができるよりも、ずっと前からのことです。季節の山菜、食べられる草、きのこ、川の魚。自然の巡りに合わせて、採れるときに採る。いつ採るのか。どう食べるのか。森を傷めずに、どこまで採っていいのか。その加減が、親から子へと引き継がれてきました。

この夜に泊まったのは、川どこべらぼう。木のぬくもりのある小さな宿です。機嫌の読めない猫が一匹住んでいました。翌朝の朝食にも、この土地の料理が並びます。日本海で揚がった沖ギス。秋田の郷土料理がベースのしょっつる汁。鯛と豆腐、絹さや、そして前の日に摘んだじゅんさいが入った、澄んだ汁です。もう一つ、見慣れないものがありました。ウワバミソウ。茎と根のしゃきしゃきした歯ごたえが好まれる山菜で、香りのよいそばつゆで出てきます。

「これは、下ごしらえにものすごく手間がかかるのです」
宿の方はそう言いながら、外側の固い繊維を手際よく剥いで、なかの柔らかい部分を見せてくれました。

摘みたてのじゅんさいに、地元で揚がった魚と季節の野菜が合わさる。

山あいの町、藤里町。ここでは、地元のガイドが山菜採りの世界を紹介してくれます。ただ草を摘みに行くのとは違います。季節の巡りを知っていること。食べられる種を見分けられること。山が自分で戻せる分を見きわめること。この三つがそろって、はじめて山菜採りになります。何代もかけて溜めてきた森の知識があってはじめてできることです。

いちばんおいしいウワバミソウは、茎の太さでわかる。次も生えてくるように折る位置がある。ガイドが実際にやって見せてくれました。この山には、ヘビもいる。ツキノワグマもいる。ガイドは号砲を持っていて、歩きながらときどき鳴らします。追い払うためではありません。人が近づいていると知らせて、鉢合わせを避けるためです。

この森を歩いて一生を過ごしてきたガイドは、食べられる草も薬になる草も、次から次へと見分けていきます。香りの立つミョウガ。ハート形の葉をしたドクダミ。下ごしらえに手間のかかるヤマウド。数えきれないほどの種類に驚かされます。森の周期を見続けてきた年月が、そのまま知識になっているのです。

ウワバミソウを探して歩くと、白神山地の森と地域の暮らしをつないできた、世代を超えた知恵の一端が見えてくる。

さらに山を分け入ると、峨瓏(がろう)の滝に出ます。春は雪解け水で水量がぐんと増し、冬には凍りついて氷瀑になる滝です。すぐ近くで、ガイドの市川和安さんが「田中の大イチョウ」の話をしてくれました。弘法大師が地面に挿した箸が、そのまま大木に育ったのだと伝わっています。この地域には、こうした言い伝えがいくつも残っています。森は、長いあいだ信仰の場所でもありました。

峨瓏の滝は、秋田県側の白神山地に広がる自然の豊かさを、いちばん手軽に感じさせてくれる場所だ。

しばらくすると、市川さんはリュックから何かを取り出して吹きはじめました。イタドリの空洞になった茎を削ってつくった笛です。この森が人に与えてきたのは、食べ物と材料だけではありませんでした。素朴な音が、そのことを静かに伝えてくれます。

田中神社に伝わる言い伝えは、この地域の人びとと森との深い結びつきを映している。

観光案内所・物産販売所・食堂が併設する、白神山地のふもとにある空間「森のえき」に到着すると、その日採ったものがまたテーブルに並びました。塩昆布と、香りのよいクロモジのお茶が添えられています。森は、守って眺めるだけの風景ではありません。白神山地を故郷と呼ぶ人たちの味も、習慣も、日々の暮らしも、この森があってのものです。この日は朝から、それを何度も別のかたちで見せられてきました。

一日の最後に向かったのは、白神山地世界遺産センター(藤里館)。ここへ来ると、朝からたどってきたものが一本につながります。ユネスコがこの土地を選んだ理由は、特定の生きものでも、名のある景観でもありません。世界でも最大級のブナ原生林が残っていること。そこで自然の営みが、数千年にわたってほとんど乱されずに続いてきたこと。その二点です。

自然アドバイザーの白鳥万里さんが、大きな図を指さしました。描かれているのは、倒れたブナです。寿命は、およそ250年から300年。一本倒れると、そこから光が林床まで届くようになります。きのこが生え、数えきれない生きものが動きだす。そうやって、循環が続いていきます。

白鳥さんは笑顔で、こう続けました。「このブナ林には、数千年前と同じ自然の関係がそのまま残っています。だからこそ、次の世代のために守り続けているんです」

白神山地世界遺産センター(藤里館) は、ブナの森へ入る前に立ち寄っておきたい場所だ。

巡り続けるブナの森

奥へ入るほど、ここでは何一つ切り離されていないことがわかってきます。雨。森。川。湖沼。山を越えた先で育つ食べ物。すべてが、同じひとつの巡りのなかにあります。青森県側を歩くと、風景の美しさだけでなく、この土地が世界自然遺産に選ばれた理由そのものが見えてきます。

青森県側でもっともよく知られているスポットの一つが、十二湖です。ただ、この名前は実際とは合っていません。ガイドの米内山和代さんによれば、ここに点在しているのは33の湖沼。1704年の大地震が地形を大きく変えたことで生まれました。

「池の名前は、見た目をそのまま表しているんです」と米内山さん。「長池があって、鶏の頭のかたちをした鶏頭場の池があって。いちばん有名なのが青池です」

青池は、十二湖のなかでもっとも目を奪う場所といわれる。ターコイズブルーの水面が美しい。

青池の青は、現実のものとは思えません。水はすべて、地下から湧いたもの。光の加減で、明るいターコイズブルーから深いコバルトブルーへと色を変えます。白神山地を象徴する風景です。

森林セラピーの認定ガイドでもある米内山さんが見ているのは、湖沼だけではありません。歩きながら、レースのように繊細なシダを指さす。鶏の足に似た葉をつけるトリアシショウマを教える。ハート形の葉をしたカツラの木を見上げる。

「白神山地といえばブナ林ですが、ほかにも美しい木がたくさんあるんですよ」

十二湖の散策路は、さまざまな木々に挟まれた深い森のなかを行く。

クロモジの低木のそばで足を止め、葉を一枚そっと揉んで、独特の香りを立たせてくれました。この木の精油は、気持ちを落ち着かせ、よく眠れるようにする働きがあるとして、古くから重宝されてきたそうです。

「ブナに雨が降ります。そうすると根が水を吸って、土がそれを濾して、やがてこの湖沼に流れ込んで、最後は日本海に出ていく。そしてまた、同じことがくり返されるんです」と米内山さん。

言われてみれば、この旅のあいだずっと、同じものを見ていました。じゅんさいの育つ湿地を潤している森。その同じ森が沢に水を送り、十二湖を満たし、生きものを養い、まわりで暮らす人たちを支えている。どの場面にも、水が通っていました。

細かなレースのようなシダも、十二湖周辺の森を彩る植物の一つだ。

そのつながりが、白神山地ビジターセンターでさらにはっきりします。この一帯の生態系と、人の歴史を、体験しながらたどれる展示がそろっています。大型スクリーンの映像は、ブナ原生林を空から広く映し出します。展示で紹介されているのは、クロサンショウウオ、サクラマス、ヤマブドウなど。自然と人の両方が、数千年をかけて白神山地をつくってきたことが見えてきます。

マタギについての展示もあります。何世紀もかけて森の知識を磨いてきた人たちです。獲物を追うだけでなく、動物の行動、季節の巡り、自然と並んで生きるために必要な均衡について、深い理解を築いてきました。触れて学べる展示、ブナの実の試食、デジタルのバードウォッチング、そしてVR。森をこれまでとは違う角度から見るための仕掛けがそろっています。

その晩、宿に戻ると、部屋にヒバのチップの香りが静かに満ちていました。山の上から湖まで、水をたどって歩いた一日。森の匂いが、まだ体に残っているようでした。白神山地のブナの森が届けるものは、木々の立つ場所だけにとどまりません。

森の奥へ

白神山地が、この地域の食も、文化も、水の流れもつくってきました。ここまでの旅路で、それが理解できました。旅の終わりは、そのすべてが始まる場所、ブナの原生林そのものです。世界遺産の核心地域は厳しく守られていますが、その外縁にはガイドとともに歩ける道があります。東アジアに残された数少ない大きな温帯林の一つを実際に歩きながら、なぜこれほど慎重な管理が必要なのかを知ることができます。

最終日に歩いたのは、アクアグリーンビレッジANMONから始まる3.5kmの道です。

アクアグリーンビレッジ ANMON は、白神山地の散策路へ向かうときの主要な入口の一つ。

核心地域には、特別な許可がなければ立ち入れません。それでも周辺の道を歩けば、同じように高く伸びたブナの森と、驚くほど多様な生きものに出会えます。人の影響を抑えたまま、森の姿を見られる道です。道すがら、ガイドの渡辺景子さんが、木の幹に残る薄れた刻み目を指さしました。登山道が整備されるずっと前、マタギやきのこ採りの人たちが付けた印です。秋になると、ツキノワグマがブナに登って実を食べる。食べているあいだ、枝や葉を下に敷き集めて、腰かけのようなものをつくるのだそうです。

この森には、いくつもの物語と信仰が詰め込まれています。「マタギにとって、この山は神聖な場所です。幹が三つに分かれたブナには神さまが宿ると信じられてきました」

西目屋村の散策路を歩けば、世界自然遺産・白神山地の深い森のなかへと入っていける。

高く広がる樹冠の下に立つと、その気持ちがよくわかります。頭上の葉は、数千年、同じ季節の巡りをくり返してきました。そのあいだから、光が柔らかく落ちてきます。この静けさも、ずっと昔から変わっていないのでしょう。

けれど、この森も変わりつつあります。渡辺さんは足を止めて、最後にこう言いました。

「ブナは普通、4年か5年に一度、実をたくさんつけます。でも今年は2年で実をつけました。とても珍しいことです。気候が変わってきているなかで、次の世代を確実に残そうとしているのかもしれません」

白神山地がこれからどうなるのかは、誰にもわかりません。

森の水をたどってじゅんさいの沼まで行き、その季節でなければ出せない食事を分けてもらい、代々の知識を受け継いだ人たちに教わり、最後に古い樹冠の下を歩きました。そうしてみると、ひとつだけはっきりすることがあります。ブナの森は、ただ守られている風景ではありません。いまも、自然と人の両方を養っています。そして、この森の先行きは、そのつながりを人がどれだけ理解できるかにかかっています。

文=キンバリー・ヒュー
写真=ミラー莉子

※この記事は2026年10月制作のものです。

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